
親鸞の教行信証に迫ります。
今回の指南役は釈徹宗先生。
分かりやすい説明でテレビで大人気の先生です。
(1)逆境の中で鍛えられた思想
親鸞“教行信証” (1)逆境の中で鍛えられた思想
初回放送日NHK教育テレビジョン7月6日(月)午後10:25
「教行信証」では、「無量寿経」を根本経典として据えなおし、阿弥陀仏の本願の深い意義を掘り下げていく。そこで明らかになるのは、極悪人や権力者、凡愚の人も含めて、すべて仏が人間の姿をとって現れたものととらえた「権化の仁(ごんけのにん)」と呼ばれる親鸞の人間観。逆境の中で自らの信仰を深めてきたからこそ生まれた独自の思想である。第一回は、執筆背景を交え、親鸞が本書で示した独自の人間観に迫っていく。
『教行信証』は30年をかけて書かれた大作

私はこれまで『歎異抄』は読んだことがあるものの、『教行信証』についてはほとんど知りませんでした。
番組を見るにあたり、取り急ぎ現代語訳に目を通してみましたが、かなりの難読本です。
今回は番組を見ながら感じたことを、自分なりの視点でまとめてみたいと思います。
番組で最も驚いたのは、『教行信証』が約30年もの歳月をかけて執筆されたということでした。
30年という時間は、一冊の本を書くというよりも、人生そのものをかけた仕事と言っても過言ではありません。
現代語訳も全6巻という大作です。
私は取り急ぎ現代語訳を読み始めましたが、
「これだけの内容が今に伝わっているということは、現存しているものがすべてなのだろうか。」という疑問も湧いてきました。
庶民を救おうとする仏教に惹かれる
平安時代末期から鎌倉時代にかけての仏教を学んでいると、私が特に惹かれる点があります。
それは、庶民を救おうとしている仏教というところです。
身分や学識ではなく、「誰でも救われる」という考え方が、当時としてはいかに画期的だったかを改めて感じます。
難しい修行ができる一部の人だけではなく、苦しみを抱えながら日々を生きる普通の人々に向けられた教えだったことが伝わってきます。
庶民を助ける宗教は弾圧されるという歴史
番組を見ながら、歴史にはある共通点があることにも気付きました。
それは、庶民を助けようとする宗教は、時として為政者から弾圧を受ける。という構図です。
既存の権威や秩序を揺るがす思想は、どの時代でも歓迎されるとは限りません。
親鸞もまた、法然門下として弾圧を受け、越後へ流罪となりました。
歴史を振り返ると、このような出来事は決して珍しいものではありません。
だからこそ、『教行信証』には単なる教義だけではなく、時代と向き合った親鸞の覚悟も込められているように感じます。
「論駁」という言葉が印象に残った
今回、番組の中で「論駁(ろんばく)」という言葉が登場しました。
辞書では、
相手の主張や説の誤りを論じて反論すること。
という意味になります。
仏教では、多くの思想や宗派が互いに議論を重ねながら発展してきました。
一つの言葉から、その時代の学問や思想の奥深さが伝わってきます。

途中、挿話として「びんばしゃら」とか「いだいけ」などが出てきます。
仏教として有名な悪役であると釈先生は言われます。
つまり、そんな絶対的に悪い人間でも救われるんだから、一般の人でも救わるんじゃないかという考えが浸透しやすかったというのです。
字面だけ見れば、非常に分かりにくかったのですが、これで一気に身近な話になってきました。
次回が楽しみです。
(2)「自分の都合」と向き合う
親鸞“教行信証” (2)「自分の都合」と向き合う
初回放送日:NHK教育テレビジョン:7月13日(月)午後10:25
阿弥陀仏の本願を信じるという初歩の行為ですら阿弥陀仏のはからいであるとする「絶対他力」の立場を打ち出す親鸞。常識はずれと思えるその思想は、私たちがいかに小さな自我にとらわれ、自分の都合でしか物事を見ていないかをあぶりだす。また「行巻」に収録される「正信偈」は我々がより大きな存在の中で生かされていることへの自覚を促す詩だ。第二回は、「他力思想」を通じて、「自分の都合」といかに向き合うかに迫っていく。
私たちは「自己責任」という重荷を背負いすぎていないか?
現代を生きる私たちは、「自分の人生は自分で切り開くもの」「努力すれば報われる」という価値観の中で暮らしています。
もちろん努力することは大切ですが、その一方で「失敗したのは自分の努力が足りないからだ」と、自分を責め続けてしまう人も少なくありません。
「もっと頑張らなければ」
「もっと成果を出さなければ」
そんな思いに追われ、知らず知らずのうちに心が疲れてしまうことがあります。
NHK「100分de名著」で取り上げられた親鸞の主著『教行信証』第2回では、「行(ぎょう)」の巻を通して、こうした現代人の生き方にも通じる大きなヒントが語られていました。
そこで示されるのは、自分の力だけで人生を切り開こうとする「自力」の考え方ではなく、阿弥陀仏のはたらきに身を委ねる「他力」の世界です。

それは単なる「人任せ」ではなく、自分の力だけに頼ろうとする心を見つめ直す教えでもあります。
念仏の主体は「私」ではなく、阿弥陀仏のはたらき
「南無阿弥陀仏」と唱える念仏は、多くの人にとって「自分が一生懸命唱える修行」のように思われがちです。
しかし親鸞は、まったく異なる見方を示しました。
親鸞によれば、念仏は人間が努力して生み出すものではありません。
阿弥陀仏の本願が私たちにはたらきかけ、その結果として自然に口からあらわれるものだと考えたのです。
その根拠となるのが、『教行信証』でも重視される阿弥陀仏の第17願です。
そこには「あらゆる世界の仏たちが私の名をほめたたえるように」という願いが説かれています。
親鸞は、この願いによって念仏は人間の努力によるものではなく、阿弥陀仏のはたらきとして私たちに届くものだと受け止めました。
自分から仏へ近づこうとするのではなく、すでに仏の願いが私たちへ届いている。

この視点の転換こそが、「他力」の大きな特徴なのです。
親鸞が見つめた「自業の都合」という壁
番組で特に印象に残ったのが、「自業(じごう)の都合」という言葉でした。
親鸞は、人間はどうしても自分の都合や考えに縛られてしまう存在だと見つめています。
「自分が正しい。」
「自分が頑張れば何とかなる。」
「自分が良いことをしている。」

こうした思いは一見前向きに見えますが、知らないうちに自分自身を苦しめる原因にもなります。
番組では、長年NPO活動に携わってきた指南役の先生の話も紹介されていました。
支援活動を続ける中でも、「自分は良いことをしている」という思いにとらわれると、かえって苦しみや行き詰まりが生まれることがあるそうです。
親鸞が語る「自業の都合」とは、まさにこのような、自分の思いや計らいに縛られてしまう人間の姿なのかもしれません。

NPO活動ももちろんいいことなのですが、自分が良いことをしていると思った瞬間に自分自身が転ぶことがあるというお話は私自身にも覚えがあることです。
慢心した時点でだめだという事なのでしょうね。
多くの人にも心当たりがあるのではないでしょうか?
法然が選び抜いた、誰もが歩める道
親鸞の師である法然は、多くの修行法の中から、すべての人が実践できる道を選びました。
それが「三選(さんせん)の文」と呼ばれる考え方です。
難しい修行を脇に置く
複雑な修行や儀式を捨てる
「南無阿弥陀仏」と称える念仏を選ぶ
これは「簡単だから」という理由ではありません。
どれほど能力や知識に差があっても、誰もが歩める道を示そうとした結果なのです。
親鸞もまた、この教えを受け継ぎました。
賢い人だけではなく、失敗を繰り返す人も、迷い続ける人も、すべての人に開かれた教え。

それが念仏の道でした。
正信偈に込められた800年の「教えのバトン」

『教行信証』の中でも有名な「正信偈(しょうしんげ)」には、七高僧への深い感謝が込められています。
インドから中国へ、そして日本へ。
教えは多くの高僧たちによって受け継がれ、親鸞のもとへと届けられました。
番組では、その姿をまるでリレー競技のバトンのように表現していたのが印象的でした。
誰か一人でも教えを受け継がなければ、その流れは途絶えてしまいます。
何百年もの時を超え、多くの人々によって守られてきたからこそ、私たちも今『教行信証』に触れることができます。正信偈には、その教えを受け継いできた人々への深い感謝が込められているのです。
結局、「他力」って?

「他力」とは私たちが思う「他力本願」とは違うものです。
「他力」と聞くと、「何もしないこと」や「人任せ」と受け取られることがあります。
しかし親鸞が伝えたかったのは、そのような意味ではありません。
自分の力だけですべてを何とかしようとする思いを手放し、阿弥陀仏の本願に委ねるという生き方でした。
もちろん、それは簡単なことではありません。
「本当にこれだけでいいのだろうか。」
「もっと自分で頑張らなければならないのではないか。」
そんな迷いが生まれるのも、人間として自然な姿なのでしょう。
それでも親鸞は、そのように揺れ動く私たちの姿も含めて、阿弥陀仏の慈悲の中にあると説きました。
完璧に信じられなくてもいい。
迷い続けてもいい。
そのような不完全な人間だからこそ、阿弥陀仏の本願は向けられているのです。

『教行信証』第2回は、「頑張り続けなければならない」という現代人の思い込みを、少しだけ軽くしてくれる内容でした。
今日一日だけでも、自分の「都合」や「思い込み」を少し手放してみる。
そんな小さな一歩から、新しい景色が見えてくるのかもしれません。
(3)「実存的改読」がもたらすもの
親鸞“教行信証” (3)「実存的改読」がもたらすもの
初回放送日NHK教育テレビジョン7月20日(月)午後10:25
臨終時に唱える念仏によって往生するのではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を唱える決意した瞬間に往生が決まると捉える「現生正定衆」、浄土へ往生することが目的ではなく、浄土で菩薩となり再び現世へ戻り衆生を教化していくことが目的であるとする「還相回向」。いずれも親鸞による「実存的改読」であり、独自の思想として深化を遂げている。第三回は、現実を力強く受けとめ生き抜く思想として「教行信証」を読み解く。
「頑張らなければ価値がない」と思っていませんか?

現代は、努力や成果が何よりも重視される時代です。
「もっと頑張らないと認められない」
「失敗したら終わり」
「自分で何とかしなければならない」
そんなプレッシャーを感じながら生きている人も多いのではないでしょうか。
しかし、鎌倉時代の僧侶・親鸞は、まったく逆のことを説きました。
「救いは自分で勝ち取るものではない」
それは、阿弥陀如来からすでに与えられているものだというのです。
今回は『100分de名著 教行信証』第3回をもとに、親鸞が伝えた「他力」の思想を、現代の生き方と重ねながら考えていきます。
自分の努力ではなく「向こうからの願い」
私たちは何かを得るためには努力が必要だと思っています。
ところが親鸞は、
信心は自分が作り出すものではなく、阿弥陀如来の願いによって起こされるもの
だと考えました。
『教行信証』には、
「信心は如来の願いによって起こされる」
という意味の言葉があります。
つまり、「私が信じた」のではなく、
「仏が私を信じて待っていてくれた」
という発想です。
これは現代人にとって非常に新鮮な考え方ではないでしょうか。
「悪人正機」は悪人を肯定する教えではない
親鸞といえば「悪人正機」という言葉が有名です。
しかし、「悪いことをしても救われる」という意味ではありません。
阿弥陀如来の本願には
「五逆罪や仏法を誹謗する者は除く」
という一文があります。
一見すると救われないようにも思えます。
しかし親鸞は、本当に救いを必要としているのは、自分の弱さを知っている人ではないかと読み解きました。
誰でも失敗します。後悔もします。罪悪感を抱えながら生きています。

だからこそ、そのような人に向けてこそ仏の慈悲があると考えたのです。
SNS時代だからこそ響く親鸞の言葉
今の時代は、一度の失敗がネット上に残り続けることがあります。
SNSでは、過去の発言が何年も後に掘り返され、批判されることも珍しくありません。
そんな「失敗が許されにくい社会」の中で、親鸞は「人は誰でも完全にはなれない」という前提に立っています。
だからこそ、他人を裁く前に、まず自分自身もまた弱い存在であることを知る。

この視点は800年経った今でも色あせていません。
三方良しは親鸞の教えから!
親鸞の教えは、厳しい修行をしなければ悟れないというものではありません。
- 毎日の生活を誠実に送ること。
- 家族を大切にすること。
- 仕事を真面目にすること。
- 誰かを思いやること。
そうした普通の暮らしそのものが仏道なのです。

この考え方は、後に近江商人の「三方よし」の精神にもつながったと紹介されていました。
- 売り手よし
- 買い手よし
- 世間よし
自分だけではなく、相手も社会も幸せになる。
この考え方は、今の時代にも十分通用する価値観だと感じました。
救われた人は再び人を助ける
親鸞の教えは、浄土へ行って終わりではありません。
悟りを得た人は再び苦しむ人のもとへ戻って助ける。
これを還相回向(げんそうえこう)といいます。

「プロ野球選手になった人が少年野球の指導者として戻る」という例えで説明されていました。
自分だけが幸せになれば終わりではない。
誰かを支えることまで含めて、救いは完成するのです。
この考え方はとても印象に残りました。
親鸞は「ありのままの自分」で生きていいと教えてくれた
『教行信証』第3回を見て改めて感じたのは、親鸞の教えは「もっと頑張れ」というものではなく、
「頑張れない自分でも大丈夫」という安心を与えてくれる思想だということです。

現代は、努力・成果・効率ばかりが求められる時代です。
「普通に生きること」「ありのままの自分を受け入れること」に
価値を見いだした親鸞の言葉は、800年経った今でも私たちの心に深く響きます。
(4)誰一人取りこぼさない救済原理
(4)誰一人取りこぼさない救済原理
初回放送日NHK教育テレビジョン7月27日(月)午後10:25
親鸞は「自力」修行に励んだ結果、挫折し法然との出会いによって「他力」へと目覚めた自身の人生を反映させた「三願転入」という論を展開する。阿弥陀仏の誓願と自身の人生を重ねた論述は、闇深き弱者たちをも包摂する原理を阿弥陀仏の本願力に求めようとする親鸞の志向が読み取れる。第四回は、「教行信証」で展開される独特な救済原理を読み解き、現代人が陥っている分断社会をどう乗り越えていったらよいかを考えていく
「逃げる者すら見捨てない」

不安なとき、私たちはなぜ誰かを攻撃してしまうのか?
現代社会では、私たちは常に「何者か」であることを求められています。
仕事で成果を出すこと。
正しい人間であること。
周囲から認められること。

そんなプレッシャーの中で、社会全体に不安が広がると、私たちの心はどんどん狭くなっていきます。
そして、自分とは違う立場の人を「敵」として見てしまうことがあります。
日本赤十字社は、感染症の流行には「3つの感染」があるという考え方を示しました。
第一は「病気(ウイルス)」。
第二は「不安と恐れ」。
第三が「排除・偏見・差別」です。
不安に駆られた心が縮こまり、自分を守るために他者を排除してしまう。
この連鎖は、コロナ禍を経験した私たちにとって、決して遠い話ではありません。
そんな今から約800年前。
親鸞が残した『教行信証』を読み直してみると、そこには現代の私たちにも響く、驚くほど大きな「救い」の考え方がありました。
それが、「摂取不捨」です。
親鸞が説いた「摂取不捨」

正しくない人や罪を犯した人も見捨てない?
いったいどういう事でしょうか?
『教行信証』の根底に流れている大切な考え方の一つが、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」です。
文字どおりにいえば、「おさめ取って捨てない」という意味です。
私たちは「救われるためには、努力しなければならない」と考えがちです。
正しい行いをする。
一生懸命に頑張る。
信仰を深める。
そうした人が救われる?
けれど、親鸞が見つめた阿弥陀仏の慈悲は、そうした条件付きの救いとは少し違います。
仏に向かって歩いていく人だけではない。
迷っている人も。
立ち止まっている人も。
さらには、仏から逃げようとする人さえも。
決して見捨てない。
ここに親鸞の思想の大きな衝撃があります。
私たちは「頑張ったから認めてもらえる」という条件付きの肯定に疲れてしまうことがあります。
仕事で結果を出さなければ。
誰かの役に立たなければ。
正しい人間でなければ。
そんなふうに、自分自身にまで条件をつけてしまいます。

でも、もし、「何者でもない自分でも、すでに見捨てられていない」と思えたら。
それだけで、少しだけ肩の力を抜くことができるのではないでしょうか。
人生の「寄り道」は無駄ではない――「方便」という考え方
私たちは、人生のゴールを早く達成しようとします。
理想の自分になる。
夢を叶える。
成功する。
けれど、思うように進めないと、「自分は何をやっているんだろう」と落ち込んでしまいます。
そんな私たちに教えてくれるのが、「方便(ほうべん)」という考え方です。
方便とは、最終的な真実へ近づいていくための「仮の道筋」と考えることができます。
これを現代風に考えるなら、マラソンのようなものかもしれません。
42.195km先のゴールだけを見ていたら、あまりにも遠く感じてしまいます。
でも、「まずは次の電柱まで」と思えば、一歩を踏み出すことができます。
人生も同じです。
最終的な答えにたどり着くまでには、迷うこともあります。
寄り道することもあります。
一度戻ってしまうことだってあります。
でも、それらはすべて無駄なのでしょうか。
親鸞自身も、迷いながら歩みを進めました。
自力の修行に限界を感じ、悩み、寄り道をしながら、やがて「他力」という世界へとたどり着いていきます。
だからこそ、「今の自分は、まだ途中にいるだけなのかもしれない」と思えることは、とても大切なのではないでしょうか。人生の寄り道も、失敗も、迷いも。
もしかしたら、それらもまた、自分が真実に近づいていくための大切な時間なのかもしれません。
迷信から離れることで、現実を生きる力が生まれる
『教行信証』の後半、「化身土巻」では、当時の社会に広がっていた占いやまじない、星への信仰などが批判されています。
親鸞は、人間が何かにすがるのではなく、仏・法・僧を拠り所とする「三帰依」を大切にしました。
ここには、現代の私たちにも考えさせられることがあります。
人は不安になると、何かに答えを求めたくなります。
「これをすれば幸せになれる」
「これを信じれば大丈夫」
「こうすれば絶対に成功する」
そんな言葉に心が引き寄せられることもあります。
けれど、本当に大切なのは、目の前の現実から逃げないことなのかもしれません。
自分が何を信じるのか。何を拠り所にして生きるのか。
そこが定まっているからこそ、私たちは現実の世界を冷静に見つめることができます。
浄土真宗と富山の薬売りの関係についても、こうした合理的な精神とのつながりを指摘する説があります。
「何かに依存する」のではなく、「確かな拠り所を持つ」。
この一見矛盾しているような考え方が、かえって人間を自由にする。
ここにも、親鸞思想の面白さがあるのではないでしょうか。
自分を攻撃する人の幸せを願う――親鸞が見つめた「分断の先」
そして、今回の『教行信証』で私が最も心に残ったのが、ここです。
親鸞は、自分を批判する人や、自分とは異なる考えを持つ人を、単純に「敵」として切り捨てませんでした。
むしろ、「その人たちも救われてほしい」と願います。
これは、簡単なことではありません。
自分を傷つけた人。
自分を否定した人。
自分とは正反対の考えを持つ人。
そんな相手の幸せを願うことは、とても難しいことです。

現代では、SNSを開けば、誰かを批判する言葉が目に入ります。
「自分が正しい」
「相手が間違っている」
そんな思いがぶつかり合い、いつの間にか相手を「人間」ではなく「敵」として見てしまう。
そんな時代だからこそ、親鸞の姿勢が胸に響きます。

相手を許せなくてもいい。
すぐに仲良くならなくてもいい。
それでも、「この人もまた、自分と同じように苦しみながら生きている人なのかもしれない」
と、一瞬だけでも思うことができたなら。
そこから、分断を超える小さな一歩が始まるのかもしれません。
逃げても、迷っても、私たちは見捨てられない
『教行信証』を読んで感じるのは、親鸞の思想が「もっと頑張りなさい」と私たちを追い立てるものではないということです。
むしろ、
「あなたは、迷ってもいい」
「寄り道してもいい」
「逃げてもいい」
それでも、決して見捨てられない。
そんな大きな願いの中に、私たちは包まれている。
阿弥陀仏とは、空間的な無限である「無量光」と、時間的な無限である「無量寿」を象徴する存在です。
いつでも、どこでも、誰一人として取りこぼさない。

そんな「大きな願い」を見つめることで、私たちは自分だけに向いていた視線を、少しずつ外の世界へ向けることができるのかもしれません。
不安になると、心は小さく縮こまります。
自分を守ろうとするあまり、誰かを攻撃してしまうこともあります。
だからこそ、ときには自分という小さな枠組みを超えて、もっと大きな世界を見つめてみる。
そのとき、固まっていた心が少しずつ解きほぐされていくのではないでしょうか。

もし、あなたがどんなに逃げ出そうとしても、決してあなたを離さない「大きな力」に守られているとしたら。
明日からの世界は、どのように見えるでしょうか。
その安心感があるからこそ、私たちはもう一度、誰かに優しくなれる。
そして、また一歩を踏み出すことができる。
『教行信証』が現代の私たちに教えてくれるのは、そんな「見捨てられない」という安心感なのかもしれません。


