100分de名著~偶然性・アイロニー・連帯~ローティ

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第1回 近代哲学を葬り去った男

ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (1)近代哲学を葬り去った男 - 100分de名著
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第1回 近代哲学を葬り去った男
【放送時間】
2024年2月5日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【指南役】朱喜哲(大阪大学招聘教員)…番組「日本のジレンマ」で論客として活躍。著書に「〈公正〉を乗りこなす」等がある。
【朗読】戸田恵子(俳優)
【語り】八田知大(NHKアナウンサー)
ローティは、西欧哲学の流れを俯瞰し、その根本動機が「究極の真理を見出し、それによってすべての学問や知を基礎づけ直すこと」にあると分析。だが、そのような「基礎づけ主義」「本質主義」は、価値感が多様化した現代にあっては百害あって一利なしと批判する。あらゆる知がそれぞれの地域や時代によって育まれた「偶然的なもの」であるという事実を直視し、そこから哲学の新たな役割を創り出さなければならないと主張するのだ。それは、多様な価値観がせめぎあう社会の中で、歪んだ「語り」や「言説」に治療的に働きかけるという役割だ。第一回は、哲学者ローティがどのようにして近代哲学を葬り去ったかを明らかにしながら、「基礎づけ主義」の何が問題なのか、そこから解放された時どのような社会ビジョンが開かれるのかを考える。

https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/poVnBqWgLo/
グレース
グレース

朗読は戸田恵子さん。
俳優としてご活躍ですが、多くの方にはアンパンマンの声優さんと言えば分かりやすいかもしれません。

とても綺麗な声で、聞き取りやすいので難しいテーマのこの名著もすんなり入りやすいきっかけになると思います。

トランプ政権を予言した哲学者?

2016年 トランプ政権が誕生
20年前に予言していた哲学者がSNSで話題に。

予言していた哲学者の名前は「リチャード・ローティ」

トランプの出現を預言していた部分
  • 中間層が崩壊
  • 国民の一体感がなくなる
  • 強い男が選ばれる
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ローティの年表

人生の前半は飛び級で一流大学に進学し、エリート街道まっしぐら!
後半生は哲学界の重鎮(会長)でありながら、哲学を否定するような「哲学と自然の鏡」を出版する事でバッシング(今で言う炎上)してしまうという数奇な人生を送っています。
異端的に扱われる事も多いローティですが、隠れて読む若い方も多く影響を受けた哲学者も少なくありません。
ローティは「隠れた鉱脈」という指南役の朱先生。
年表を見るだけでも、異端ぶりが垣間見られます。
*説明は分かりやすいように私が追記しています。

リチャード・ローティ (1931年~2007年) 説明
1931年 アメリカ・ニューヨークで生まれる  
1946年 15歳でシカゴ大学に入学 飛び級で進学(天才!)
1961年 プリンストン大学で助教授  
1979年 アメリカ哲学会(東部)会長 哲学界の重鎮に!
  「哲学と自然の鏡」出版 哲学を否定してハブられる
1982年 バージニア大学にて人文学特別教授として着任
1989年 『偶然性・アイロニー・連帯』出版 今回の名著
1998年 『アメリカ 未完のプロジェクト』出版  
  スタンフォード大学にて比較文学教授として着任
2007年 死去  

ローティの哲学批判

人間に何か本質があるという考え方自体が「百害あって一利なし」とぶった切った!

哲学会の会長だった時期に書いた本だったので飛ぶように売れたものの哲学を批判するその内容にバッシングを受ける事になってしまう。

ローティ自身は自分の考えは受け入れられると考えていた。
(批判されると思っていなかった)

ローティの考え方は古代、中世、近代と関心事も違えば、哲学的な考え方も違う。
これを一貫して「哲学」という事はどうなのかという事を提起している。

ローティが考える哲学の推移

「哲学」という学問は一貫して「哲学」であって良いのかという逆説的な考えです。
それぞれの時代に求められた「哲学」は別の学問の言い方もあるのでは?

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対蹠人との関係

地球人と対蹠人(地球外の同じレベルの宇宙人)との対比。
地球人が思う「痛い」という感覚が対蹠人には分からない。
では、そもそも地球人が思う「痛い」という感覚は本当に誰しも思う感覚なのか?

グレース
グレース

ドンドンややこしくなってきましたが、自分の感覚と人とは違うという事が明確に説明されているように思います。

会話を守るという意味

これまでの哲学者は「確かな知を求める学問である哲学を元にすべての知識は積み上げられている」という考えから、一般の人々の会話を下に位置付けてきた。
一方的に「これが正しい」と結論付けてきた。

一般の人々の言葉を断ち切ってきた→発展しない

一般の人に分かる言葉で問題を可視化している。
例:パワハラ、タイパ、コスパ、ワンオペ

言葉は社会や人間を変える力を持つ

「ワンオペ」という言葉が流通し、浸透した事から、母親一人が育児をして辛い思いをしている事を怒っても良いようになった。

偶然性・アイロニー・連帯とは

常識だと思っているもの当たり前だと思っているものは偶然の産物。
だから変化に開かれている。
「私たちは偶然で今の社会の在り方も偶然」という認識を持つべき。
一番正しいものということはあり得ないし、これからも変わっていく事があり得る。

相互理解が大切

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感想

新しい哲学。
トランプの出現を予言していたというローティの「偶然性・アイロニー・連帯」の哲学。
世の中は「強い男」を求めるようになった時にトランプは出現しました。
人々が考えるのを辞めた時、強い為政者が現れるという事は100分de名著で繰り返しテーマになっているように思います。
この「強い為政者」は何も独裁体制という事でなく民主的な選挙でも生まれえるという事です。
これらの問題点はシャープ理論でのシャープ理論の弱点でも指摘されています。

また、ショックドクトリンでも「民主主義の面倒くささでショックドクトリンを跳ね返す」でも「トップダウンは楽」という考えでは自分たちは救われない点が指摘されました。

そして、人間同士は考えが違っても争ってはならず「対話」を続けることは中江兆民の「三酔人経綸問答」でも描かれています。

改めて100分de名著のチョイスが優れているなと感じました。

グレース
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人は「言葉」で「対話」していかないといけないという事は共通していると思いました。そして、人任せにしない事。しっかりと自分で考えるということの大切さを改めて感じました。

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第2回 「公私混同」はなぜ悪い?

ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (2)「公私混同」はなぜ悪い? - 100分de名著
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ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (2)「公私混同」はなぜ悪い?
初回放送日: 2024年2月12日

「公私混同はよくない」とされる常識に反して、社会のあらゆる領域で公私は混同され続ける。オフレコ発言がたちまちニュースを騒がすなど公私が入り混じるのが現代社会だ。

ローティは、公私の区別こそが民主主義の基盤となると主張し「バザールとクラブ」というモデルを提示。私的な仲間内の「クラブ」ではいかなる奇抜な趣味、異常な趣向をもっていても同好の士の間で共有されるが、そこから一歩外へ出ると自分の基準からは許しがたい価値観の人々も交錯する「バザール」が広がると考える。「バザール」内では公共的な規範やマナーが重視されるべきでそこを整備することこそ哲学の役割だとするのだ。

https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/episode/te/G57RRV3RRP/

同じ話題を話すときでも言葉使いは変わる?

ビジネスモード
恋人と話すとき
友達と話すとき

それぞれで話し言葉や話し方や行動そのものが変わったりすることがある。
「前とは違っていたじゃないか!」という事ではなくてその変遷の上で「創造や変化」を模索する事が出来る。

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アイロニストとは?

自分の異なる境遇の人間であるとか会った時に完全にシャットアウトするわけではなくて
「自分もその立場になったら、そういう事になったのかもね」と考えられるくらいの人。

ファイナルボキャブラリー

自分の最終的な観点や観念を多くの人は持っている。
すべての人が何かしらのファイナルボキャブラリーは持っている。
自分のファイナルボキャブラリーを他者に開いて歩み寄る事が出来る。

グレース
グレース

ただし、歩みよすぎると話は終わらなくなります。

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バザールとクラブ

ローティは人の論理の多面的な方向を表現するために「バザールとクラブ」という表現をしています。
「バザール」というのは日本人にはなじみは薄い表現かもしれませんね。
「市場」という意味で公共的な空間という事になります。
つまりは「オフィシャル」な場という事になります。
もう一つ「クラブ」というのは「いつものお店」でフランクに語り合える「私的な空間」という事になります。
つまり「プライベート」な場という事になります。

オフィシャルとプライベートという論点で考えれば分かりやすいですね。

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リベラル・アイロニストとは?

本質が一つであれば「どちらかが正しくて、どちらかが間違い」という事になるが、むしろ別々のままでいいのではないかと思われる。
どうやって社会や個人の中で同居し得るのかを考えるべきと変わっていっている。

リベラルに「残酷さ」があるかどうかで変わってくる

例:ドメスティック・バイオレンス(DV)
元々は家庭内の事であったが、それが暴力であれば社会が介入する社会が「公共性と私性の境目」を変えている。

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感想

「正論」しか許されないという閉塞感が今、現代の方があるという事が実感できた回でした。
SNSなどでも「正義警察」が出現し、間違った人間は徹底的に叩いて良いという図式が出来てしまっています。
間違いは正さなければならないというのもその人の主観で、その立場や時代が違えば「正しさ」も変わってきます。
「間違った事を一切言ってはいけない」という風潮を使ってしまう事で議論もされないし、「自分の意見を持たない人」や「他人に依存する」だけの人間が出てしまうという危うさを改めて感じました。
「本音と建て前」という考えに近いというのも日本人にも合う考え方だと思いました。

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第3回 言語は虐殺さえ引き起こす

ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (3)言語は虐殺さえ引き起こす - 100分de名著
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ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (3)言語は虐殺さえ引き起こす
初回放送日: 2024年2月19日

ローティは伝統的哲学によって基礎づけられた「人権」という概念に疑義を呈する。それは暴力を阻止するどころか助長することもありうると警告するのだ。

「理性をもつ存在こそ人間」という近代哲学がロジックは「理性をもたなければそれは人間ではない」というロジックに容易くすり替えられる。ルワンダでは敵対する部族を「ゴキブリ」「蛇」と名指さすことで虐殺のハードルが著しく下げられ非道な殺戮(りく)が横行した。「虐殺の言語ゲーム」として分析されるこうした事例を、ローティは「残酷さの回避」という新たな概念によって抑止しようとする。ローティの処方箋に迫る。

https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/episode/te/119WPWMXZM/

公私混同を超えるとき

「公私」の境界線は難しいものです。
ですが、プライベートな事であっても、それが命に関わる時は超えてもいい、むしろ超えるべきだと言う事も納得な事でした。
プライベートまで踏み込んで良いのは「残酷さ」がある時です。
例えばドメスティック・ヴァイオレンス(DV)であるならば、事件が起こっているのは家庭内のプライベートな事ですが、被害を受けている側は自分で何とか出来ません。
外部の介入があって初めて解決するのです。

「残酷さ」の境界線は「命に関わる時」だと思いました。

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差別を引き起こしてしまう言葉

言葉一つで差別を引き起こし、その結果、相手の人権まで奪ってしまう事もあります。
相手を差別し、貶めてしまう言葉を使う事で「人間として」扱われる事もなくなってしまいます。
そして、差別する側はそれを問題とせずに、無意識にやってしまう恐ろしさもあります。
これが「人間でないから殺してもいい」という倫理すら超えてしまうのです。

虐殺の実話

ルワンダの虐殺を舞台にした映画。
ジャン・レノがノンクレジットで出演した事でも話題になりました。
彼は自分の名前を出さずにいた事でこの虐殺への沈黙の批判を貫いています。
ネット配信は無いようで、視聴可能なのはBlu-ray又はDVDとなります。

感想

ルワンダの虐殺の切っ掛けがラジオでの「あいつらは害虫だから駆除して良い」というアナウンスから始まった事を改めて知って言葉の恐ろしさを知りました。
(番組内では外注の具体的な表現がありましたが、ここでは「害虫」で、ぼかします)
この虐殺は「ホテル・ルワンダ」という映画作品でもテーマになっています。
西側の国にはほとんど報道もされず、知る人も少なかったのですが、この映画でこの虐殺は多くの人に知らされる事になりました。
ですが、当時でもかなりマイナーな映画で今も配信はされていません。
いわゆる「不都合な真実」という事でしょうか?
公開された当時に映画館で観ましたが、その時の衝撃は今も忘れられません。

二つの部族に分かれて相手を殺しても良いという事になってしまうのですが、この二つの部族は何が違うのかが全く分かりません。
部族の間で結婚もするし血縁関係もあります。
番組内でも紹介されますが、人種的にもほぼ変わらないのです。
そんな彼らが「殺してもいい」どころか「駆除してもいい」となってしまった時に「殺す事の罪悪感」も「倫理」も吹っ飛んでしまったのです。
この切っ掛けが「言葉」であった事の恐ろしさを感じずにはいられません。

「ホテル・ルワンダ」は制作陣の根性も鑑みられます。
公開においてかなりの圧力があった事と、有名な俳優陣による出演も一歩間違えれば彼らのその後の生涯にも関わるような作品でもありました。
特にノンクレジットでジャン・レノが出演した事でも話題になりました。
マイナーな作品で世界に知られる事もなかったかもしれない作品でした。

日本の例でも「妻の○○さん」と言えば対等に扱われているという感覚だけれど、「嫁!」と言い捨てられる事で急に格下げにされたように感じる事も紹介されました。
「日本人は特別」と称賛される事で日本人の礼儀正しさや衛生観念が評価される事は素晴らしい事なのですが、日本人自身が「日本人は特別」だから何をやっても許されるという概念を持ってしまっては本末転倒である事も感じました。

第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!

ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (1)近代哲学を葬り去った男 - 100分de名著
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ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (4)共感によって「われわれ」を拡張せよ!

初回放送日: 2024年2月26日

ローティは、マイノリティの権利獲得の裏で相対的な権利剥奪感を抱く白人労働者が「自分たちこそ弱者」と叫び強力なリーダーを求める可能性を導き「トランプ現象」を予言 「トランプ現象」とは、マイノリティを救うはずの「アイデンティティの政治」が逆用される現象といえる。こうした歪みを是正するため、ローティは、文学やルポルタージュを使って他者への共感能力を育て「われわれ」という意識を拡張し続けるという処方箋を提示する。第四回は、こうした問題に対して、哲学はどのような処方箋を用意できるのか、ローティが理想として掲げる「リベラルな社会」とはどのようなものなのかを探る。

https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/episode/te/6QRK3X8J98/

文学やジャーナリストの書いたものが人々の心に突き刺さる

残酷さを減らすためには犠牲者への共感が必要である。
これに必要なのはリベラルな「理論」や「哲学」ではなくてリベラルな「作家」「詩人」「ジャーナリスト」であるというのです。

グレース
グレース

これはその通りだと思います。
哲学で難しい事を言われるよりも小説や創作物の中の登場人物に感情移入する事でその立場に入りやすいのではという意見には大賛成です。

アンクル・トムの小屋

1852年(ハリエット・ビーチャー・ストゥ作)
奴隷制度のに翻弄されるアメリカ黒人の悲惨な境遇を書いた小説

黒人の悲惨な境遇に多くの人が賛同
奴隷解放運動へのきっかけになった。

ロリータ

1955年(ナバコフ作)
ロリータ・コンプレックスなどの語源になった作品。
少女に惹かれたハンバードの話として有名だが、今回は比較で使われる

ロリータに出て来る主人公のハンバートは自己の事しか考えていないために立ち寄った床屋が何故、年をとっても働かなくてはいけないのか、飾っている写真の息子が30年前に亡くなっている事に全く思いを馳せていない。
また、われわれ読者も床屋に対する思いを受け止められていなくてスルーしてしまっているという現実がある。

主人公と床屋の思いの対比

床屋は自分の息子を亡くしています。
主人公のハンバートはその思いをくみ取る事もなく
どうでもよくて自分の事しか考えていません。

  ハンバート(主人公) 床屋(立ち寄った先)
思いの対比 年配で下手くそな床屋め! 年をとっても働かなくてはならない
野球選手の息子がどうのと喚き散らす 亡くなった息子の事を話している
唾を飛ばすな! 涙ぐんでいる
俺の掛布で眼鏡を拭く 涙を拭いている
30年前に床屋の息子は死んでいたが
他人の事はどうでも良い
戦争で出征した息子を亡くした
グレース
グレース

このシーンは映画でも表現されています。
モノクロフィルムの映画で私も何度か観ましたが、この床屋のシーンにこういう想いがある事に私自身も思いを馳せられていませんでした。
たまたま立ち寄った床屋が横柄で怖いような印象がありました。
ここまでの意味や思いが込められている事は今回初めて知りました。
皆さんもこの思いを受け止めたうえでご覧になられると良いと思います。
私もまた主人公のハンバートと同じで床屋の事など何とも思っていなかったのです。

感想

哲学よりも文学の方が人に寄り添う事が出来るというのはまさにその通りだと思います。
「哲学」というとハードルが高いけれど、「文学」でその登場人物の気持ちに寄り添う事で「本来の本質」を形骸化する事が出来るのだと思います。
ここで「文学」と言い切ってしまうと「本や活字」だけだと思ってしまいそうですが、これは「演劇や映画、アニメ」でも言える事だと思います。
創作物の登場人物でも、例えばそれが「戦争」だったら何かしらの「事件の被害者」だったりしたら、たちまちそれは自分の気持ちに入ってくることになります。
日本のアニメが戦争を取り扱う時に批判された時代も多かったのです。
ロボットものにしても宇宙を舞台にした戦争にしても最終的に子供たちが戦争に駆り出されます。
「子供が武器を持つ」という事で日本アニメが非難の対象になった時期もあるのですが、現実的には戦争が長期化すればプロの軍人たちだけでは足りず、子供たちが戦争に参加せざるを得ないというのは実は必然的な事なのです。
この「残酷な現実」を子供の頃から「アニメや漫画に共感」する事で「戦争はダメだ」という認識を持つ大人になっていくのではないかと思います。
日本人の多くが「戦争」にNOを突きつけるという現実は「アニメや漫画」などの創作物の影響があると思っています。
(こういう意味で日本は奇跡の国です)

番組中、ロリータが紹介されました。
私は最初は意味が分からなかったのですが、主人公が床屋に入り出てきたというエピソードです。
非礼で無礼な床屋だったのですが、その床屋は自分の息子を亡くしていたのです。
でも、主人公はそれをスルーして自分の事しか考えていません。
ですが、こうやって自分とは関係ない人の事は私たちもスルーしてしまっているのではないかという事が紹介されます。

アメリカの分断をもたらしてしまったトランプ政権。
これも人々が「自責から他責」に代わってしまった為に「強い指導者」に依存してしまった結果だという事があります。
「ハッキリ言ってくれる人」に引っ張られてしまうのはそれぞれが「自分の意見」を持たないからです。
そして、また「相手を追い詰める」ことや「正誤」を明らかにする事でなく落としどころを付けて行く事が大事だと思いました。
今、一般的に自分たちの生活でもそうですが、その時や立場によって「前とは違うこと」はいくらでもあります。
世界が少しでも良くなるように私自身も話し合いと学ぶことを辞めずに行きたいと思います。

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