第1回 奴隷の絶望の先に ―「弁証法」と「承認」
100分de名著「資本論」で一世を風靡した斎藤幸平先生を指南役に迎えてのこのテーマ。
マルクスの「資本論」でさえ現在に切り取ってしまったあの手法でどうやってあの難解なヘーゲルを分析するのでしょうか?
私も一緒に考えて行きます。
ヘーゲル独自の表現があってその解説がなければ、読み手は分かるわけがありません。
当時の人もそういう事情であれば、まず解説書が欲しかったでしょうね。
アウフヘーベン
この回で特に言われた概念の一つにアウフヘーベンと言うのがあります。
これもドイツ語です。
二つの真逆の概念を考えると言う事で第三の価値観の事だと私は解釈しています。
番組内では下記のように説明されます。
A(テーゼ)=自立した概念
B(アンチテーゼ)=依存した概念
AとBは主従関係であったはずなのですが、ある考えの元では立場が逆転するのです。
Aは命令するだけ。
Bは実質的に行動し、実行力があるのです。
何ともややこしい話ですね。
主人(A)が命令していたけれど、奴隷(B)はその命令によって実行しているから実際に動かしているのは奴隷(B)と言う事なのです。
主人と奴隷の関係では「奴隷が主人に依存している」というのが最初に出て来る考えだと思います。
よく言われるのが「奴隷を解放しても奴隷は行き場を見失う」と言う事です。
奴隷は主人に依存しているので解放された方がどうしていいか分からなくなると言う事なのです。
ですが、今回は命令している主人の方が奴隷がしてくれる仕事によって依存していると言う考えでした。
確かに働いてくれる奴隷がいなければ困るのは主人の方です。
この考えは自分の中ではなかったので目からうろこでした。
アウフヘーベン(止場)の3つの意味「破棄する」「維持する」「高く持ち上げる」
真逆の意味もあります。
これは難解だ。
自立と依存は常にセット。
だから逆転することもあるのです。
自立と依存は表裏一体なのですね。
ヘーゲルは一人前になるには何度も失敗し依存をしながら、自ら成長していかなければいけないと考えた。
難しい論理の展開でしたが、最後は救いのある言葉でした。
失敗も依存も成長には必要なんですね!
第2回 論破がもたらすもの ―「疎外」と「教養」
論破という言葉の裏腹には「自分は絶対に正義、他は許さない」という不毛な心理があると思います。
ヘーゲルはどうでしょうか?
論破は分断をもたらすと言う着地点で考えて行きます。
法や価値観はその時代によって移り変わります。
また、対立する両者にとっては自分が「善」であり相手は「悪」なのです。
相手からすると逆になります。
そうすると、絶対善も絶対悪もないのです。
お互いの立場が変わると善悪が変わる例
国権 | 財富 | |
秩序の維持こそ 善とする立場 | 善 | 悪 |
経済成長こそ 善とする立場 | 悪 | 善 |
国権=国を統治する側(税金をかける側)
財富=資本家や投資家など(税金を取られる側)
真逆の立場ですが、このお互いも自分は「善かれ」と思ってやっていると言うのです。
立場が違うと善悪が変わり、多角的に見る必要があると言う事です。
論破の末に
ヘーゲルの時代にも上流社会のサロンで論破合戦があったのです。
このサロン文化についてエスプリに富んだ会話と批判しているのです。
今の討論合戦で、違う意見を言う事や逆張りを言う事に通じているのではないかと。
今と18世紀のサロンが似たよう文化があると言うのです。
相手を打ち負かすだけの論破をヘーゲルは批判していたのです。
論戦は新たな気付きもある一方で論破をしたところで相手を打ち負かし黙らせることが出来るが否定された方には悪感情が残るだけです。
これが分断に繋がってしまうのです。
近代の疎外はむしろポジティブである。
ただし、自由な価値観は人によって違う。
だからこそ、ぶつかり合って善悪が反転してしまう。
行き過ぎると何でも疑うようになり、社会規範が崩れてしまう。
教養の限界という方向に向いていきました。
次回に続きます。
第3回 理性は薔薇で踊りだす ―「啓蒙」と「信仰」
フランス革命はヘーゲルの住むドイツの隣の国、フランスで起こりました。
フランス革命はヘーゲルに多くの影響を与えます。
第2回の善と悪に分断され限界に直面した意識は自分の判断を普遍的なものにしたいと言う欲求が芽生えて来ると言うのです。
啓蒙VS信仰
啓蒙は科学的、物理的に証明でき根拠のあるものとされ、
信仰は伝統的規範や「価値観の壁」の事。
啓蒙は自分で考えるが、
信仰は「盲信」であるという前提。
信仰を批判するものの為に啓蒙は生まれた。
啓蒙と信仰の戦いとなっていく。
技術革新などによって一般市民が豊かになっていく事で宗教や王政が批判されていく元凶になっていきます。
これはそれまで力を持たなかった一般市民が少し豊かになっていく事で知識も増え、悪政を敷いていた宗教や王侯貴族が批判されていったのかな?
人相学や骨相学で見かけなどで「この人はこうだ!」という論点は恣意的な結合に過ぎない。
啓蒙もまたエビデンス(論拠、証拠)で証明すると言う事は妄信でもある。
信仰側も神を物理的ではなくてメタファー(暗喩)として用いている。
啓蒙と信仰側のお互いの論拠が同じことを言っているような気がしてきました。
啓蒙の帰結
- 1啓蒙←自分たちの好きなものを信じるしかない
- 2有用性←善悪の基準が自分にとって役に立つかどうか
- 3絶対的自由←理念や道徳も失われた状態(自由を皮肉っている)
- 4テロル←恐怖政治。どんどん処刑していっている
何と啓蒙が暴走してしまったのです。
啓蒙には何が足りなかったのでしょう?
啓蒙に足りない「薔薇」
後のヘーゲルの著書「法の哲学」より。
ここに薔薇がある、ここで踊れ
薔薇=理性
「薔薇」をヘーゲルは「理性」と重ねています。
人の感情や価値はデータや数値ではできない。
そういう次元を大切にする理性の姿を「薔薇としての理性」とヘーゲルは呼んでいるのです。
ヘーゲルも意外にロマンチストだったのでしょうか?
何でも科学的な根拠があると言う事にしてしまうと「感情」や「幸せ」がいつの間にか置き去りになってしまって恐怖政治などに繋がってしまった事を言っているように思いました。
分断化される今の社会に大事なのは意外に「感情」なのかな?
第4回 それでも共に生きていく ―「告白」と「赦し」
着地点は良心
嘘をついてはいけないと言う比較。カントとヘーゲル。
クリックすると大きな画像で観る事が出来ます。
カントの定言命法ではいかなる場合でもあっても嘘はついてはいけません。
そうなるとDVで逃げていた女性を匿っていても追ってきた人に訊ねられば「ここにいます」と答えるのが正解。
でも、そうするとDVで逃げてきた女性を加害者に渡すことになり、女性はまたDVに遭う可能性が出てきます。
救えないのです。
それに対して、ヘーゲルは道徳的な善は他の人から見ても善である場合は違う答えがあると言うのです。
どちらも偽善、しかし相互承認へ
どちらも偽善である
行為する意識=主観的→承認欲求→よく見られたくてする→告白
評価する意識=客観的→偽善的だと批判→何もせずに口だけ→然り
しかし、お互いに話をすることで相互承認が得られると言うのです。
ただし、相互承認も強制されるものではなく物別れになる事もある。
「かたくなな心情」となって分裂分断されたままになる場合もある。
進撃の巨人の例
クリックすると大きな画像で観る事が出来ます。
ガビとカヤと言う二人の少女の事が例に出されます。
ガビは悪魔だから躊躇なくサシャを殺しました。
でも、カヤにしてみればサシャは命を助けてくれた恩人でした。
お互いの事を知らずに一時は友達になるのですが、ガビがサシャを殺そうとしたと知ったカヤはガビを殺そうとします。
これが最初の前提です。
クリックすると大きな画像で観る事が出来ます。
ガビとカヤはお互いに敵です。
憎き敵です。
でも、ガビはカヤの命の危機に飛び出してカヤの命を救います。
そして、ガビが敵の人間として囚われそうになった時、今度はカヤがガビを救うのです。
敵対していた国の人間同士でしたから「相手を殺すことが正義」という感情があったのです。
でも、相手の生活に踏み込んでみたら普通の人間で気持ちを通い合わせる事が出来る事が分かったのです。
但し、すぐにハッピーエンドと言うわけではなくて、自己批判と告白と赦しを繰り返すことによって少しずつ良い方向に向かっていくのかなと思いました。
とても難しい話でした。
進撃の巨人になぞらえてお話をまとめてくださいましたが、自己批判からの告白そして赦しという段階を踏んでも世の中はすぐ平和にならない事実も添えられました。
ですが、こうやって何度も繰り返すことで、少しでも世界が平和になる方向にいってほしいと願いながら、私もこのシリーズを見終えました。
これからの多様化する世界の中でお互いへの尊敬や敬意が平和に繋げる一歩でもあるのかと感じました。
皆さんはどう思われたでしょうか?