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新約聖書は人と神が契約を交わした後のお話です。
新約の「約」という字は「翻訳する」ではなくて「約束する」の「約」です。
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「聖書なんて難しくて分からない!」という方の為に、アニメと漫画で分かりやすいものをどうぞ。
当時の時代背景や服装や人々の生き方が美しく表現されています。
旧約聖書のアニメ
旧約聖書の漫画
第1回 悲しむ人は幸いである
第1回 悲しむ人は幸いである
https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/pJMBqq2jbV/
【放送時間】
2023年4月3日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子
イエスはベツレヘムの馬小屋で誕生したとされる。このことから、イエスは貧しい人々、身分低き人々、世間からないがしろにされている人々に寄り添うために生まれたと捉えられてきた。有名な「山上の説教」では、「悲しむ人たちは幸いである」と説かれ、誰が偉いかを競い合う弟子たちには「幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる者である」と窘める。イエスの生涯は一貫して「悲しむ人」「小さき人」「蔑まれた人」たちと共にあったのだ。若松さんは、これらの言葉にはあらゆる宗教を貫く神髄があるという。第一回は、イエスの生誕、受洗、最初の説教などを通して、イエスの生涯に込められた深い意味を探る。
福音書とは「新約聖書」の中の4つの福音書。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の事を言うそうです。
新約聖書のすべてではないんですね。
特に今回「新約聖書 福音書」となっているのはそういう前提です。
聖書と言うのはキリストに出会うための本であると言われる若松先生。
キリスト教でない人にも読んでほしい。
宗教を超えて何かしら心に触れるところがあると言うことです。
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これは私も賛成です。
「福音」と言うのはイエスが産まれた喜びという意味です。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは人の名前でそれぞれ一人の人が書いたとされていましたが、それぞれの共同体が書いたのではないかと言うのです。
ただし、「それぞれの代表的な存在であったのでは?」というのが今回の説です。
イエスの誕生
イエスが誕生した時にメシア(救い主)の誕生が予言されたためにそれを恐れたヘロデ王は2歳以下の子供を殺したと言う記述があるのです。
ヘロデ王はイエスの登場を恐れていたのです。
その時の権力者が民衆を救うメシアがいては困るほどの政治をしていたと言うことなのでしょう。
苦しんでいた民衆は当然メシアを歓迎したのでしょう。
イエスは上から何かを抑えるのではなくて、弱い人に常に寄り添ったと言います。
ここで民衆がイエスを受け入れるのは至極当然の事だったのかもしれません。
貧しきことは幸いである
貧しさを知る事は幸いであると言う「貧しさ」とは「心のありようの不完全さ」である。
自分という人間は完全ではなく我々は自分だけでは生きていけない、だからこそ補い合っていきていくという意味と解しています。
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貧しさと言うのは金銭の多寡の貧しさだと思っていた人も多いでしょう。私も同じです。心の貧しさでもなく、自分自身は完全ではないからみんなで助け合っていこうと言う解釈なのですね。この解釈は素敵だと思いました!
悲しむ人は幸いである
悲しむ人は幸いである。みんな実は弱いんだというイエスのメッセージです。
イエスの言葉を聞いているのは弟子とは限らず、普通の人達に分かるようにその人の心の奥に語り掛けたというのがイエスの核心なのです。
病に苦しむ女性にも…
病気に苦しむ女性が救いを求めてイエスの衣に触れます。
群衆の中に紛れた女性を探すことはとても困難なのですが、イエスは探します。
たまらずに自分から名乗り出た女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうこの病気に悩むことはない」と声をかけるのです。
衣に触れると言うのは象徴的であると言います。
また「私達の中には自分を癒すだけの力は備わっている」ということをイエスは教えてくれたと言うことです。
そして、少しだけ衣に触れた女性をイエスの方から探すと言うことで「どんな人でもイエスの方から探してくれる」というのです。
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イエスが奇跡を起こしたと言うのは賛否両論あると思います。
ただ、このエピソードは病気に悩む女性の心を救ったと言うことなのかなと感じました。
罪人(つみびと)にも寄り添うイエス
徴税人マタイや罪人と食事を共にするイエスを非難する人もいるのです。
ここで言う罪人は「ざいにん」ではなくて「つみびと」なのです。
罪=ハマルティア(的外れ)という意味。ギリシャ語です。
「医者を必要とするのは健康な人でなく、病人である。
マタイ9:12-13
『私が望むのは犠牲ではなく、憐みである』
ということがなにを意味するか、学んできなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく
罪人を招くためである」
色んな罪があるけれど、「自分さえよければ」も罪、「いろんなことがあるけれどそんな決まり事なんかどうでもいい」というのも罪かもしれない。
でも、イエスはそれを拒絶するのでなく受け入れる。
共に生きると言うことなのです。
イエスの考えの中に「裁き」は無いと言います。
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1回目から身につまされる事が多いお話でした。
第2回 魂の糧としてのコトバ
第2回 魂の糧としてのコトバ
【放送時間】
2023年4月10日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子「福音書」は魂の糧となるコトバに満ち溢れている。断食修行中に「神の子ならば石をパンに変えてみよ」と問う悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではない」といい人間は言葉によって生きるという真理を示すイエス。五つのパンと二匹の魚で五千人もの男を満腹にさせる奇跡を起こしたイエス。深く読み解けば、人々が食したのはイエスによってもたらされた言葉だととらえることもできる。若松さんは、「永遠の命に至らせる食べ物」「あなた方の知らない食べ物」と繰り返し表現されるものこそ、大いなる働きによってもたらされたコトバであり、魂の糧として人々を生かすものだという。第二回は、一見すると信仰者にしか関りがないと思われる出来事や奇跡の描写の深い意味を読み解き、生きることを支えてくれるコトバの力を探っていく。
https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/pJMBqq2jbV/
カタカナのコトバ
福音書は文字によって読まれてはならないのです。
(柳宗悦「柳宗悦宗教選集 第二巻 神について」)
あの夥しい経巻は、文字を超えようとする文字なのです。
言葉亡き境にその言葉を読まないなら、
心理の扉を開くことはできないのです。
行間を読むなんて言う言葉を私たちはよく使います。
文字と文字との間に意味を感じると言うことはあるんじゃないかと。
福音書はそこが大きいのではないかと。
コトバというカタカナで表したのが言語学者の井筒俊彦(1914~1993)が最初。
文字や声になる漢字の言葉ではなく、色んな意味の表れを感じながらあるいは用いながら生きているのではと言った人。
例:画家にとっては色、音楽家にとっては旋律、落語家にとっては間がそれぞれのコトバ。
コトバは物理的な事実だけでなく真実があると言うのです。
自分の経験で読んでいくのです。
人はパンだけで生きるのではない
「『人はパンだけで生きるのではない。
マタイ:4:4
神の口から出るすべての言葉によって生きる』
と書き記されている」。
「人はパンだけで生きるのではない」と言う言葉だけが多く知られ「神の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉があまり知られていない。
イエスは決してパンがいらないと言ったわけではなくて、パンだけあれば満足すると言うことではないと言うことを言いたかったのでは?
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パンがなくても生きていけると言う解釈をしていた人も多いのではないでしょうか?パンだけでなく人とのつながりが大事だと言うことでしょうか?
初めにみ言葉があった。
ヨハネ1:1-2
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神とともにあった。
み言葉=ロゴス(理法)
(ギリシャ語)
この世はみ言葉によってできたが、
ヨハネ1:10-11
この世はみ言葉を認めなかった。
み言葉は自分の民の所に来たが、
民は受け入れなかった。
私達は最初に理解するときに頭を使う。
ただし、カタカナのコトバは頭だけでは理解できないのです。
頭が先に動くと本質が理解できないと。
「み言葉」を「イエス」に置き換えるかもしれないのです。
民はイエスを受け入れなかったと解釈できるのでしょうか?
増えたパンと魚の意味
5つのパンと2匹の魚を皆に配らせると5千人の人に満腹にさせ、残ったパンと魚は12の籠にいっぱいになったと言う話は有名です。
ですが、この話は荒唐無稽に感じる方も多く、これを信じないとキリスト教者になれないのではという研究者も少なからずいたと言います。
ここで語られているパンと魚はコトバでないかと言うのです。
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やはり不思議なお話ですよね。キリスト教者本人たちでも疑問に思うシーンという正直なお話が面白かったです。多くの人の疑問点ですね。この先も論争があると思います。
コトバと永遠の命
イエスの弟子たちは漢字の言葉でとらえてしまい、カタカナのコトバでとらえているのは普通の人達であったと言います。
百人隊長は中風になってしまった部下の為にイエスにただ言葉をもらいに来るのです。
中風の人がイエスの言葉に癒されると言うのです。
*中風とは脳卒中などで後遺症が残ってしまう人の事を言ったようです。
体が不自由になってしまった人にかけた言葉でその人は癒されます。
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第1回の衣に触れた女性と似ています。
また、この場合は百人隊長の部下の事で病にかかった人本人はその場にすらいないのです。
それでもイエスにコトバをもらう事で救われたと言うことでしょうか?
宮沢賢治の妹を亡くした時に読まれた「永訣の朝」の朝が引用されます。
福音書を深く読んでいた宮沢賢治はコトバで生きている人と亡くなっている人とのつながりを大事にしていたのかもしれません。
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人生の後半になると人の真意に気が付くのかもしれません。
また、あの時に言われた「言葉」が「コトバ」としてとらえた時に「本当はこういう事を言われていたのではなかったか?」と気が付くことがあると言うのです。
なるほど、私もそういう事があります。
本当は「褒めてくれていた」のに「怒られた」とか「けなされた」とか思って誤解していたと言うことがありました。
そういう反省も出来た回でした。
第3回 祈りという営み、ゆるしという営み
第3回 祈りという営み、ゆるしという営み
【放送時間】
2023年4月17日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子イエスはついに自らの目的を果たすべくエルサレムへ入城する。そこで驚くべき行為に出る。力をもって神殿で商いをしている人たちを追い払うのだ。福音書で唯一イエスが暴力を振るう場面だ。「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」。イエスにとって神殿は人間の魂そのものだった。そうとらえると私たちにとって「祈り」という営みが何なのかが浮かびあがってくる。また、姦通の罪で捕らえられた女性を糾弾する周囲の人たちに対しては、「罪のない人間だけが石を投げなさい」と告げ、たしなめる。そこには「ゆるし」という営みについての深い教えが込められている。若松さんは、福音書に描かれる「ゆるし」は、人々が互いに光を見出すような和解の営みだという。第三回は、イエスが語る祈りやゆるしという営みを通して、人間が最も大切にしなければならないこととは何かを深く考える。
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イエス激怒!祈りとは?
イエスは神殿で商売をしている事に激怒し蹴散らします。
人々が神殿で動物を買って神に捧げる事に激怒し蹴散らしたのです。
これはどういうことでしょうか?
神殿で商売をしてはならない。
神に祈る時に供物はいらない。
イエスが怒ったのは神は供物を求めていないのに神殿で鳩・牛・羊・鳥などの動物を売っていた事を怒ったのです。
決して、商売そのものを怒ったのではなかったのです。
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これは私も大きな間違いをしていました。
イエスは商売そのものを禁じていると解釈していました。
そうではなくて神殿で供物を売買している事に激怒したのです。
神は供物などを求めていないのです。
その神聖な神殿でお金を払うことで罪を逃れたり祈りが叶うと言うことがあってはならないのです。
これは免罪符にも通じるかなと思いました。
「神の家」=「父の家」という表現をしています。
祈る時は偽善者であってはいけない
信仰というのは神への信頼。
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「私は祈っています。すごいでしょ?」なんてことはあってはならないと言うのです。
これはついやってしまいがちな事です。
猛省です。
ゆるしという営み
姦通をした女性に石を投げる男たち。
イエスは女性に近づきます。
そして、「あなた方のうち罪を犯した事のない人が、まずこの女に石を投げなさい」と言います。
これに、石を投げていた男たちの老人たちから石をおろしていきます。
姦通をしたと言うのなら相手(男)もいるはず
罰を受けて石を投げられているのは女性だけ
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この女性は性暴行の被害者だったかもしれません。
困窮のあまりの事だったのかもしれません。
でも、男性は咎められていないのです。
この点を取り上げてもらえたのが良かったです。
石を投げると言っても現実は処刑するためです。
何と殺されるのは女性だけなのです。
「ゆるす」というのは自分の良心に背いていないか。
弱い女性に石を投げつけて殺すことに良心は痛まないのか。
そういうことをイエスは言いたかったのです。
昨今のSNSの炎上なども自分は「正義」という前提から始まります。
自分自身が「ゆるさない」と自分の心も「許されない」と言うことかなあと思いつつ、この回は終わります。
第4回 弱き者たちとともに
第4回 弱き者たちとともに
【放送時間】
2023年4月24日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子最後の晩餐が終わり、オリーブ山に向かう一同。イエスは弟子たちに全員が自分を見捨てるだろうと告げる。「決して見捨てない」というペトロに対しイエスは「鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と語る。自分を裏切るユダに対しても「しようとしていることに取りかかりなさい」と告げイエスは衛兵たちに捕らえられる。イエスはこんなにも弱き弟子たちを愛しゆるしていたのだ。ついに磔刑に処せられるイエス。「わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という最期の言葉の意味とは? そして「復活」という出来事は何を意味するのか? いずれもイエスが生涯を通じて弱き者たちとともにあることを証しだてる深い意味が秘められていると若松さんはいう。第四回は、「福音書」の中でも最も重要とされる、弟子たちの裏切り、磔刑、復活の深い意味を読み解き、イエスの生涯が私たち現代人に何を問いかけているのかを探っていく。
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いよいよイエスの最期が描かれます。
善いサマリア人のたとえ
隣人とはだれを指すのかというイエスの答え
ある人が強盗に襲われ、衣服をはぎ取られ、半殺しにされてしまった。
・祭司が通ったが、その人を見ると道の向う側へ行った。
・レビ人も同じようにした。
・あるサマリア人は強盗に遭った人を助けた。
祭司は宗教上の偉い人。
レビ人も位の高い人。
でも、強盗に半殺しにされたのを助けたのはサマリア人だったのです。
サマリア人は異邦人とユダヤ人との間に生まれた人たちで迫害され、差別されていたのに困っている人を見捨てなかったのです。
最終的に助けたサマリア人が隣人だと言うのは明らかです。
人間の考える信仰心よりも良心の方が神の道に近い
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困っている人を助けたのは同じく辛い思いをした人だった。
また、助けた人が一番正しいと直感的に多くの人が思うのに私達もまた「見て見ぬふり」をしがちだと思いました。
イエスの選んだ弟子たち
イエスには十二使徒と言われる12人の弟子がいました。
ペトロ・シモン
アンデレ
ゼベダイの子ヤコブ
ヨハネ
フィリポ
バルトロマイ
トマス
徴税人マタイ
アルファイの子ヤコブ
タダイ
熱心党のシモン
イスカリオテのユダ
ですが、この12人は決して立派ではなかったのです。
誰が一番偉いかとか、誰が一番イエスに愛されているかと話していたのです。
立派ではなくて愚かであったと言います。
イエスは愚かだからこそ弟子に選んでいるのです。
最後の晩餐
磔になる前の弟子たちと過ごした最後の晩餐。
「裏切り者のユダ」だけでなく、弟子全員がイエスを裏切ったのです。
ユダだけが裏切ったと思う人が多いと思います。
そうではなくて、他のどの弟子もイエスを助けていないのです。
「イエスの受難」とは弟子全員に見捨てられたことです。
ユダの理想とイエスの理想がずれた時に裏切りが始まります。
また、イエスがそのユダに対しても「友よ」と呼びかけている事にも注目します。
これに続く「生まれてこなかった方が良かっただろう」という言葉にも師を裏切らなければいけない苦しみを背負ったユダに「何と辛い人生だろう」と言うことではないかと若松先生は解きます。
イエスの受難
イエスが捕らわれた理由は権力者の脅威になったからだと言うことに日蓮(100分de名著・日蓮の手紙)とも同じように感じました。
貧しい人や困っている人を助けようとする人の出現はどの国のどの時代の権力者にとっても煩わしいものだと言うことなのでしょう。
また、政治も正しい方向に向かって入れば、民衆のために戦う人を罰しなくてもよいのですが…。
イエスの叫び
エロイ、エロイ、レマ、サバアクタニ
(マルコ15:34)
(わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)
アラム語(ヘブライ語の方言の一つと思って良い)
イエスが立派に亡くなったのでなく、弱音を吐いた事で立派に死ななくてよいと言うことになったと言うのです。
これでイエスが立派に死んでいくとそれが死生観になってしまったのです。
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イエスも決して立派な死に方をしなかった。
だから、私達もそんな立派な死に方を目指さなくても良いのです。
これは私も救われました。
ただひとつの掟
わたしがあなた方を愛したように、
(ヨハネ15:12)
あなた方が互いに愛し合うこと
これがわたしの掟である。
イエスは神を愛せとは言わず、お互いを愛し合えと言うのです。
これはイエスがどこまでも人をゆるしたように。
![グレース](https://graceblog21.com/wp-content/uploads/2022/07/usagiicon-3.jpg)
神はどんな人でも「ゆるし」ます。
神は神を信じず、罵倒する人間でも「ゆるす」と言うのは以前にも聞いた事があります。
だからこそ、神は人には何も欲していないのだと。
イエスが神への愛よりも人同士の愛を重要にというのはここにも通じるのかなと思いました。
このシリーズはここで終わります
新約聖書をもっと知りたい方へ
新約聖書は世界で一番売れている本と言われています。
日本人でも無料でもらったり、宿泊先で置いてあったりして読んでことがある人は多いでしょう。
でも、一言一句飛ばさずに読んだとしても一度や二度通読しても全部わかったと思う人は、まずいらっしゃらないと思います。
そこで、世界観を知るために入門的な分かりやすい本を紹介しておきます。
まず、聖書は旧約と新約があるのですが、新約の前のお話「旧約聖書」については手塚治虫の「旧約聖書物語」が良いと思います。
これはアニメにもなった作品なのですが、図書館向けに発売されたDVDが今も入手可能です。
おそらくは宗教的なものなので各方面でメディア化が難しかったのかなと思います。
ですが、書籍化したものが今も販売されていて電子書籍でも観る事が出来ます。
またカラー作品なのでとても綺麗で理解しやすいと思います。