星の海へ
松本零士先生が星の海に旅立たれた。
銀河鉄道999は私が一番好きな作品の一つ。
子供の頃、初めて自分が好きで買ってもらったコミックも銀河鉄道999でした。
このコミックも何度も何度も読みかえしてボロボロになってしまい、もう私の手元にはないのだが、そのおかげでほとんどの話は覚えています。
今の若い人たちは「銀河鉄道999」(ぎんがてつどう・スリーナイン)を知らない人も多いので概略を書いておきます。
私自身の記憶の中で書いています。正確無比とはいかないかもしれませんが、飽くまで概略です。
星野鉄郎は貧しいながらも母と二人で暮らしていました。
ある雪が降る寒い日、機械人間が生身の人間を狩る「人間狩り」に遭遇してしまいます。
この世界では機械人間が生身の人間を楽しみで殺しても罪にならないのです。
ここで鉄郎とその母は逃げますが、鉄郎の母は鉄郎を庇って殺されてしまうのです。
母を失った鉄郎は一人で寒い雪の中を彷徨い、気を失ってしまいます。
目覚めた時に鉄郎の前にいたのはメーテルと言う女性でした。
機械人間に母を殺されたばかりの鉄郎は猜疑心を持ち、メーテルも機械人間だろうと訝しみますが、メーテルは生身の人間であると言います。
そのうえで、鉄郎の母を殺したのは機械人間である機械伯爵であり、その屋敷も近くにある事を教えました。
そして、鉄郎に銃を与えます。
機械伯爵の邸に踏み込み、母の敵である機械人間たちを殺していく鉄郎。
鉄郎の母は何と剥製にされ、屋敷に飾られていました。
機械伯爵を殺し、母の遺体ごと、屋敷に火を放つ鉄郎。
もう、この地球には鉄郎の居場所はありません。
実は鉄郎の母は息を引き取る寸前に鉄郎に「機械の体をタダでくれる星がある。999(スリーナイン)に乗ればその星に行ける」という話をします。
この話は鉄郎の母は以前から聞いた事があったようなのですが、あまりに荒唐無稽な話なので半信半疑で言えなかったのです。
メーテルはその999のパス(定期券)を譲ることを約束します。
その条件は鉄郎の旅にメーテルを連れて行くということでした。
(メーテルが「私は鉄郎に連れて行ってもらっている」と終始言うのもこの話が最初です)
生身の人間でありながら、機械人間を殺した鉄郎。
地球ではお尋ね者です。
でも、999に乗れば、大丈夫だとメーテルは言います。
999に乗れば地球からの追手は吹っ切れます。
地球からの治外法権だということなのです。
無事に地球から旅立って、機械の体をタダでくれるという星に出発する鉄郎。
謎の美女メーテルの正体は鉄郎にも分かりませんでしたが、それは母の遺言を果たそうとする鉄郎には意に介する事ではありませんでした。
ここから、鉄郎の旅は始まります。
太陽系の星を巡り、銀河の宇宙を超えて機械の体をタダでもらえるというアンドロメダ星雲の星に向かいます。
これがこのお話の冒頭です。
自分の記憶を掘り起こして書いてみても残酷な話です。
(いきなり母親を殺されるという話では最近では「進撃の巨人」などもありました)
私の記憶で書いているので話が前後しているところや一言一句正確でない所もあると思いますが、残酷な運命から鉄郎の旅は始まります。
私が銀河鉄道999を好きであった理由は機械の体になりたいということからでした。実は私自身が子供の頃から体が弱く、同世代の子供と同じように遊ぶということがなかなかできなかったからです。機械の体になれば、みんなと同じ健康になれるかもしれないという幼い日の思いからでした。でも、この物語は私が思っていた方向とは違う方向に行きます。
最終的に銀河鉄道999の話は劇場版と松本零士先生による原作版とでは若干違う着地点になります。
劇場版も原作版も鉄郎が生身の体を選ぶということは同じなのですが、その理由が違うのです。
これは劇場版の脚本家と原作者の松本零士先生の思いが食い違ったからだと後の関係者のインタビューで明らかになっています。
劇場版についてノベライズ化された作品も公式の物だけで3パターン出るということもありました。(朝日ソノラマ文庫、集英社コバルト文庫、少年少女モンキー)当時の人気ぶりが伺えます。
私は藤川桂介先生による朝日ソノラマ文庫版が一番好きです。
もうすでに入手困難になっていると思いますが、電子書籍などでも読めるので機会があれば読んでいただきたいです。また思い出話がある方は教えていただきたいです。
劇場版の着地点
劇場版では永遠の命とは「親から子へ、子からまたその子へ血は流れ、永遠に続いていく。それが本当の永遠の命だと、俺は信じる」というキャプテン・ハーロックの思いで表現されます。ですが、これはハーロックが心の中で思った言葉です。鉄郎に直接かけられた言葉ではありませんでした。
この直前、機械化人間と生身の人間の戦いがあり、その機械化側の主戦力の一人が鉄郎の亡き実父であったのです。
ハーロックが鉄郎の父とかつて友であり、苦楽を共にしたことがあった事、不幸にして袂を分かってしまった事も心の言葉で語られます。
この事実も鉄郎は直接聞きませんでしたが、鉄郎も何気に察している雰囲気伝わります。
ノベライズ版でも鉄郎はハーロックに真実を聞こうとしますが、辞めています。
この話も非常に素晴らしいのですが、これでは「機械の体が欲しかった」という私自身の気持ちが納得しませんでした。私自身は体が弱かったので機械の体が欲しかったのです。当時、大人になる事が出来るかどうかも難しいと言われていたくらい体が弱かった私からすれば、「子供を産んでその子に血が流れる」という未来はとても想像できるものでなかったからです。
原作の着地点
松本零士先生の原作では人間は「限りある命だから美しい」という点に尽きます。どんな人生でも長くても短くても命は限りがある。だから、美しい。この言葉には私自身、ものすごく救われました。長くても短くても良い。その人自身が生きればいい。そんな単純な事です。もしかしたら、単純な事ではなかったのかもしれませんが、これが私の心にどれだけの救いがあった事でしょう!原作の終着点でこの作品のファンで良かったと思いました。
色んな星の色んな考えの人たちに出会います。常識も法律もモラルもその星によって違います。一日が数時間の所もあれば、何日もある所など様々です。恐ろしいのは機械の体がタダでもらえるはずの星に近づけば近づくほど、機械人間の権利が強くて生身の人間にはマトモに扱われません。それでも、銀河鉄道999の中と銀河鉄道から指定されたホテルにいれば安全は確保できます。ただし、そういったホテルも働く人たちはその星の人達です。相手がお客様とは言っても生身の人間への扱いは不当なものになっていきます。
原作ではこの時間軸の経緯と機械化社会の恐ろしさがじわじわ伝わってきます。当時のコミックは18巻で、5年に渡る連載でした。今、連載で5年と言えばそんなに長い期間ではないのですが、私の子供時代の5年は物心ついてからのほとんどの期間でした。影響を受けるという点では十分な期間であったと思います。
結局は劇場版も原作版も素晴らしかった。
…とここまで書いてきましたが、劇場版もやはり良かったのです。劇場版の2作目「さよなら銀河鉄道999」の冒頭では、鉄郎を地球から脱出して999に搭乗させるために鉄郎と共に戦っていた仲間が力を貸します。力を貸すというのは自分たちの命を落とすに等しい事も決意した段階で分かっています。でも、仲間たちは鉄郎を「俺たちの息子」と言い、次々と命を落として鉄郎に希望を託して999に搭乗させます。それこそ血の繋がらない「オヤジ」達です。
遠く時の輪の接する処
「遠く時の輪の接する処」というのは松本先生が良く使われていた言葉です。先生の作中にも良く出てきます。銀河鉄道999のエターナル編でメーテルが良く使う言葉です。私自身は劇場版「1000女王」の終盤、亡くなった女王の棺の前で女王と共に戦った雨森始に言ったセリフで初めて知りました。「遠く時の輪の接する処」、今度は女王と雨森始が愛し合う人として巡りあうというようなセリフでした。ですが、これ以前にもこの言葉は多く使われていて松本先生の信念のようなものも鑑みられる言葉です。
だから、松本先生が旅立たれた話を伺っても「きっとまたどこかで」という気持ちが自然に沸きました。不思議な気持ちです。
最後に思い出した極貧時代のお話
松本先生の作品の中には極貧時代の若い時代の話がたくさんあります。「男おいどん」や「大四畳半物語」なんかがそうです。これは実話をもとにした作品だそうなのですが、不思議に思った方はいらっしゃいませんか?
そう、先生は若いころから売れっ子作家でお金に困るようなことはなかったはずなのです。でも、ド貧乏(これはご自身で言われています)だった若かりし頃。これには仕掛けがありまして、原稿料のほとんどを実家に送っていたそうなのです。家族を食わせていく!幼い弟の大学の費用も稼ぐ!と言って本当にそうなさったのです。そして、松本先生の弟さんは大学を出て工学博士となられました。松本先生曰く、「私の顔から帽子を取った人物が弟」だそうで、よく似ていらっしゃるそうです。
星の海へ旅立った松本零士先生への思いと作品の思い出を自分の記憶だけでつらつらと書いてきました。もしかしたら出典違いなどあるかもしれません。お気づきの点がございましたら教えていただけると幸いです。また、思いを共有してくださる方や思い出話などがありましたら、是非。
是非、作品もご覧になってください。
今はVODで観る事も出来ますし、電子書籍もあります。
無料視聴できるものも多くあるようなのでどうぞご覧ください。