2023年大晦日~ニコマコス倫理学に思う自己反省

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ニコマコス倫理学を観直していて、何となく思った事。
私には迷惑をかけまくられている毒友がいます。
このひととは20年以上の付き合いになってしまって、私としてはもう関わりたくない人なのですが、未だにかかわりを断ち切れない人です。
毒友は私に対して何でも自分の要求が通ると思っています。
お金、社会的地位、人脈、時間は自由に拘束できると思っています。

事実、この20年、毒友から何かを提供された事は一度もありません。
むしり取るだけむし取って私から搾取できるものは無いと判断したら、一方的な愚痴の捌け口にされてきました。
毒友から連絡がある時は碌な事ではありません。
私としても反応しない、スルーしているのですが、これが毒友にしたら一方的な愚痴の捌け口にするのにこれ以上都合のいいものではなかったのでしょう。

果ては、毒友は自分が中心であるという事を言い出しました。
「私は何でもタダでやってもらえるんや!人には一切せえへんのんや!一円もせえへんのや!」と豪語する始末。
これには私もさすがに呆れ果てましたが、「あっ、そう」とだけ言ってスルーしました。
自分がとんでもない事を言っている事が分からないんでしょうね。

これ、現役の教師の言葉でもあるんですよ。
日本の教育が終わっているのを象徴している言葉でもあると思います。

元々、何かをする人ではありませんでした。
親切にしても贈り物をしても口先だけの「ありがとう」で済まされるだけ。
お金を立て替えさせられて渡したら「今度何かするわ~」と言って踏み倒される。
挙句には私の家族が入院して大変だった時に「うちの親の面倒もみろ!」という意味が分からない事を言われる。
それでも子供には罪はないと思って子供の入学祝を渡したら、まさかの横取り。
こんなのはホンの一部に過ぎないけれど、随分酷い事をされたなと思う。

ニコマコス倫理学を観ていて何でこんな事を思い返したか?
何かの結果を出すときに「成功体験」というものがいるというくだりで思い出したのです。
私が毒友に対して「こいつには何をやっても怒らない」という「成功体験」を与えてしまったのだろうなと思うに至ったからです。
つまりは私にとっての自己反省です。

思えば、毒友は私に対して嫉妬もあったのかもしれません。
勝手に良いように妄想して嫌がらせを続けていたのかもしれません。
それを嫌がらせとか相手に嫌われるという事にも思いが至らなかったのかもしれません。

20年以上、嫌なのに我慢してきたのは私だったんですね。
それを我慢しなくてもいいのに。
「嫌なら嫌」と言えば、もう少し違ったのかもしれないのに。
多分、来年も何かとかかわりを持つ事になるかもしれないけれど、今度は嫌な事は嫌と言ってみよう。
そう思った2023年の大晦日でした。

グレース
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